心頭滅却すれば火もまたスズシ

わるあがきはじめました。

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四番 ピッチャー 大谷。

恐らく日本最後の登板を完封で締めた彼の活躍を、「漫画みたい」って形容する朝のニュースを聞きながら、昔、僕らのチームにも四番ピッチャーがいたことを思い出す。

めっきり涼しくなってクールビズはおしまい。ネクタイ締めて気持ちも引き締めサラリーマン。電車に揺られながらさっきの続き、そういや小学校の頃の僕らは最強だったなと思う。それこそ「漫画みたい」に勝ち続けて、熊本市内を制覇したっけな。

 

名作野球漫画『キャプテン』の、三代目キャプテンイガラシ君はこんなことを言っている。全国制覇を目指して、鬼のようにきつい合宿を部員に強いて、それこそ「漫画みたい」(漫画なのだが)剣道の防具をつけさせ至近距離からノックを受けさせたり。当然、新入生はへろんへろん。それでも、イガラシの弟ほか残ったメンバーはシャワーを浴びながら、草野球時代に優勝したっけなと思い出話をしているシーン。1年生の会話を聞いたイガラシは、どうして目を輝かせながら言う。

「そうそう脱落するはずはない。たとえ草野球だ地区対抗だとはいえ、優勝をした喜びを知っているやつらだからな。」

自分自身の仕事を振り返ってみて、久しく優勝から遠ざかっている。「勝ちたい」欲求を呼び起こすため、少し思い出してみる。

 

小4で熊本へ引っ越したタイミングで、友人ウッディに誘われて野球部に入った。ウッディはものすごい面倒見のいいやつで、引っ越してすぐの僕を雷魚釣りに連れ出してくれたりした。それまで基本的に、喘息持ちですぐ死にそうになっていた虚弱ボーイだったため、両親は野球を始めることに猛反対。母親は本気で合唱部をすすめてきたし、一方、父親はニヤニヤしながら「緑の少年団」(通称みどしょう)をすすめてきた。

どうも、校内の木々や植物が異常に多い小学校だったので、「緑の少年団」というドラえもんの映画タイトルみたいな心優しい部活があったのだ。何やってるかはイマイチ分からないんだけど、ドラえもん のび太と緑の少年団。というフィット感だけは分かる。のちに、みどしょうにはみっちゃんとマツフジ君という優しい2人組が入部した。みっちゃんはぽっちゃりしていて声が高くて語調が女々しいやさしい男の子で、マツフジ君は、スナイパーに銃口を向けられて言葉を発したとたん射殺される設定なのかってくらい、一言も発さない静かでやさしい男の子。余談だけど大人になって、インスタに現れるみっちゃんはそれはそれは男前になられて、地元熊本でお洒落雑貨屋さんをやってるっぽい。人間、分からないものだ。今度お店にお邪魔することがあったら、男性ホルモンの目覚めはいつだったか聞いてみたい。

 

話を戻そう。

体が弱いとは言え、物心ついた頃よりホークスファンで、団地の空き地でプラスチックバットを振り回していたし、みどしょうと野球部を天秤にかけたら答えは明確だったので迷わず野球部に入部。

そして僕らの代は、あほみたいに野球の上手いドリームチームだった。

あまりに野球が上手すぎる子たちだったので、信じらんないけど1~8番までライト以外のメンバーを固定。残った7人くらいで9番ライトをかけてレギュラー争いをするという、金持ちの道楽みたいなサドンデスが繰り広げられていた。ある意味、楽しさ優先の少年野球の概念からは大きく外れるんだけど、不平不満が出ることはないくらいのレベル差はちびっ子ながらよく分かっていたし、あとはやっぱり、チームが勝つのが何より最高に楽しかったんだ。僕なんかはベンチの盛り上げ役に徹して、毎試合声がガラガラになるまで応援した。監督さんや保護者がちゃんと見ていてくれたのが、子ども心に嬉しかった。

 

オーダーを発表しよう。

一番サードりゅうた。一番神風特攻隊長りゅうた~♪という、今の時代、問題にならないわけがない応援歌。俊足巧打、引っ張ったときの打球が早い早い。エラーするたびによく泣いてたっけ。高校時代、地元メディアから安打製造機と呼ばれるまでに成長する。

二番セカンドおが。とにかくいやらしい。ストライクゾーンがくそほど狭い小柄なバントの名人。バントの構えでバットをぐるぐるさせるんだけど、相手投手が胃潰瘍になりそうなくらいストレスフル。セーフティもバスターもエンドランも、センスが異常。

三番ショートヨッシー。この人くそほどイケメン。堅実なバッティングと華麗な守備。髪の長さの制約がない少年野球で、他チームから女子と思われることもあった。

そして、我らが四番ピッチャーまさお。体が人一倍大きく、投げては快速、豪快に三振を取り、打ってはレフトスタンドへ見事な放物線。

りゅうたがライト前にはじき返して、おががセーフティバントを決め、ヨッシーがレフト前で満塁の後、まさおがホームラン。4人で4点取るような横綱野球だった。

五番ファースト川畑のセカンドゴロで、敵も味方も保護者も監督も、ようやく一息つく。川畑君は小中と同じユニフォームで野球をしたんだけど、幾度彼のセカンドゴロを見たことか。顔だけはライトスタンド。松井秀喜と同じく「ゴロキング」の異名を欲しいままにした。

六番キャッチャー翼。彼もまた僕らの精神的支柱だったし、眼鏡でキャッチャーだったのでなんか頭脳派っぽかったし、実際よく野球を知っていた。彼は主将も務めていたので、いわゆるキャプテン翼である。野球チームなのにややこしい。

多少打順の入れ替わりはあったけど、7番レフトウッディ、8番センターまことも、いとも簡単にヒットを放って塁上を駆け回る。下位打線とは思えない超強力打線。

そして、前述の通り、9番ライトを7人ぐらいが争う地獄絵図。恐らくひーぶー4割、僕3割、他もーちゃん、せっちゃん、じゅんき、まーぶーで3割くらいの割合だった気がする。途中入部の転入生すけもり君ですら9番ライトを競わされるのであった。

僕なんかは九州大会の初戦に使ってもらったものの、ライナーをバンザイしてしまったり、大事なところでことごとく役に立てない戦力だった気がする。神山監督、ご期待に沿えず大変恐れ入ります。何卒よろしくお願いいたします。

 

2003年熊日旗学童軟式野球大会で僕らは優勝した。これ、なんとびっくり元ソフトバンクホークス馬原選手たちが優勝した以来、母校の優勝となった。

決勝のスコアを残念ながら覚えていないんだけど、初回2点取られて裏にすぐ4点取って、からの多分13-7みたいなおもしろシーソーゲームだった気がする。僕はと言うと満塁で代打で出て、ガチガチに緊張した結果振り遅れて、ボヨヨーンって高く弾んだファーストへの内野ゴロ。けれどもどこにも投げられず、勝ち越しとなるタイムリー内野安打になった。翌朝の熊日新聞に、1打数1安打1打点って記されて、いい感じに仕上がった。祖父母が尋常じゃなく喜んでくれて、いまだに親戚の集まりで話題にしてくれるんだけど、あの夏から14年経ってる。活躍を更新できておらず大変恐れ入ります。何卒よろしくお願いいたします。

 

実家にあるメダルはほとんど小学校時代の野球部のもの。

中学では上手いやつらはみんなシニアに行っちゃったり、野球部に入ったやつもタバコ吸って退部になっちゃったり、人生いろいろだ。高校にあがって、まさか自分がピッチャーになってりゅうたや翼と対戦するとは、人生いろいろだ。相変わらず野球が上手い彼らに5割くらい打たれた気がする。なんだか嬉しい悔しさである。

 

僕がピッチャーをやりはじめたのは中学野球部で、上野先生にカーブならってちょっと覚醒したんだけど、思えばその前に少しきっかけがあって。

小学校野球を引退して冬。早くもシニア入りを考えてトレーニングを積むまさお、ヨッシー達の練習に混ぜてもらって、彼ら相手にバッティングピッチャーをやっていた。別にそれまでピッチャーをやったことなく、初めてのマウンドから元四番に胸を借りる、これすげぇ楽しかった。全球全力で投げて、全球痛烈に打たれた。打ち損じは打ったやつが、ヒット性の打球は打たれたやつが取りに行くルールだったんだけど、ん?おかしいな、いっつも僕が取りに走ってへろへろになってまた打たれてちょ待って無理チェンジコールドゲーム

これまた「漫画みたい」なんだけど、あまりに打たれすぎるからってまさおに左打席に立ってもらって思いっきり投げたら、左打席から託小のプールに放り込まれたこともあった。松井ですやん。ゴジラですやん。

四番ピッチャーの僕らのチームは、最高で九州ベスト8に輝いた。

のちに、まさおは神奈川大学野球連盟ベストナインに選ばれたりした。

僕の周りには、後々、売れてったり日本一になったりすごい人間がとっても多くって、友人自慢だけじゃ寂しいから、そろそろその流れに乗っていかないと、と凡人は焦るのである。

 

野球つながりで、1つ。

オリックス宮内オーナーが「キャンプは順調です。」と聞いて、こう指摘した。「昨年最下位だったチームが順調ということは今年もまた最下位ということだ」と。

サラリーマンの僕はと言うと持ち前の「やれてます感」が年々通用しなくなっていて。繰り返す日々に安定を求めて本気の出し方を忘れそうになるけど、ここは1つ、優勝した喜びを信じて思い出して燃え上がりたいところ。勝ってもないし、完敗してもない今は、あれこれまずくね?と凡人は焦るのである。

 

唯一の救いは、優勝する喜びを知っていること。そして、たとえ打たれたとしても、本気で投げた結果であればスッキリするって知っていること。

どちらも、「四番ピッチャー」が教えてくれたことである。