心頭滅却すれば火もまたスズシ

わるあがきはじめました。

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夏至。北半球における日照時間が1年でもっとも長い今日の新宿区は小雨。傘は差さなくても問題なさそうな小雨。明るい陽が見えるからそのうち止むだろう小雨。日中が長い。平日はパックでかき混ぜハイおしまいの納豆も、時間のある土曜日は卵入れたりかつ節入れたり。手間かけるにもヒマは必要、マヒしてないか幸福の解像度。

時計を見てもまだ午前中。日中が長い。洗濯物を回す。洗い上がるまでの数分、布団に寝転ぶ。昨日飲み会からの帰り道1人ラーメン屋に入り、水をお代わりしようとしたときに、高い椅子の足を踏み外してぶち当てたスネが痛い。痛点はいつもシンプル。解像度を上げると幸福に気づきやすくなる一方、さみしさにも気づきやすくなるんじゃないかとぼんやり考える。SpotifyThe Beatles『Eleanor Rigby』をかける。 

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All the lonely people Where do they all come from?

孤独な人々よ、彼らはどこからくるのか。

 

27.5歳を過ぎて数字上は30歳が明確に見えてきたのに、30になる自分が全く描けていないのこれいかに。毎週やってくる土曜日に心は安らぐけれど、また今週も同じようにテレビから旅サラダを垂れ流しているこの変わらなさが怖くもなる。学生の頃からもう何回納豆ご飯を食べているんだよ!ってレベルアップしていかない恐怖をぶつけてもナットウキナーゼに罪はない。僕がブログを書き始めたのが大学4年の就活が終わってからでこのまま社会人になることに異様に怯えて、華々しくも何もない学生生活をどうにか変えたくてわるあがきはじめましたというわけだ。幸い、時間はある(と信じてみよう)。

たしか糸井さんだったか、ねぇねぇこれだけ傷ついたの僕見てこれって自分の傷を見せるのが子どもの表現だとしたら、ここまで立ち直ってるぜって見せるのが大人の表現だということを言っていた。爆笑問題太田光の本を小学校の頃から読み漁っていて「表現とは」ということについて彼の思想に影響されている。エッセイ集『爆笑問題集』は今でも時々読み返すお気に入り。その中から好きな一節を拝借する。

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チャップリンの“ライムライト”の中にこんなセリフがある。「薔薇は美しくあるために咲くのではない。ただ、咲きたいがために咲いているのだ。だからこそ美しいのだ。」注目されたいがために咲いた薔薇は、美しくも何ともない。

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また、「太宰と賢治」という項では、少年時代に太宰の死に憧れた自分が、歳を重ねるたび宮沢賢治の存在に憧れを感じるようになったエピソードを書いている。曰く、ナルシストの自分を憂い、何度も自殺未遂を繰り返す太宰の弱さ。太宰治三島由紀夫芥川龍之介そういった文人たちの自殺を自分の存在証明だととらえ、そういう“存在の仕方”に憧れていた頃があった。以下、拝借。

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太宰が生きたほぼ同じ時代。東京の文学界とは遠く離れた、岩手県花巻に「宮沢賢治」はいた。賢治の作品は、生前、ほとんど評価されなかったという。『銀河鉄道の夜』のテーマは“死”だが、それは太宰の扱う“死”とはスケールの大きさが違う。宇宙、自然、人間、全てにおいて表現のレベルが高い。太宰は賢治を読んだだろうか?農学校の教師として農業に身を捧げ、子どものために童話を書き続けた。小説を書くということは、自分の存在証明でもあるが、同時にその作品のために自分を消すことでもある。“ものを創る”というのはそういうことだ。歳を重ねるたびに、太宰治よりも宮沢賢治の存在に憧れを感じるようになった。存在を証明するということは、派手なことをすることではなく、“地味に生き続ける”ということでもある。

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SNS大好き人間であるけど、距離感の難しさを思う。昨今SNSで力を持つ人が増える中、まるまる@ほにゃほにゃみたいな、アカウント名で自己紹介をする人が増えたんだけど自分はやらないだろうなと思う。それでいて自意識が少しばかり過剰なのでSNSのアイコンにこだわっていてTwitterFacebook、インスタグラム、そしてこのはてなブログは全部自分で書いたルパン三世の顔にしている。社会人2年目ぐらいの鬱屈している頃、スケッチブックとペンを買ってきて夜中3時ぐらいまで丁寧に丁寧に描いたやつ。あのころのもどかしさをいつも思い出せるようにしている。あとは単純にルパン三世が好きなのと、179cm63㎏の彼に178cm63kgの僕が追いつきたいなというわけです。逆にLINEはその時々の一番笑っている自分にしている。マッチングアプリをやっていた頃「あれ、お写真と違いません?」というずれが度々あったので2,3か月に一度変えるようにしている。最近どうも、年齢なのか哀愁が漂っていると言われることが増えた。心の奥底に中学野球部の禅道場での体験があったり、そもそも心頭滅却すれば火もまたスズシなんてブログ書いてる人間だ。水木しげるさんの死生観が好きでこれこれ~ってなってる。

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しかし一方で昔好きだった女の人に「我慢することにあまりにも慣れてるから妥協するところ」が腹が立つと言われたことがあって的確過ぎてわらう。「心頭滅却すれば火もまたスズシ」なんて書いている場合じゃない。次回から始まる新ブログ「求めよさらば与えられん」どうぞお楽しみに。人間自分にないものを求める、と職場のボスは教えてくれるんだけど、そういえば今まで僕が好きになった人がみんな「これって決めたことをやり抜く」人だったことに気づいてビックリ。あぁ夏至。日中が長い。

 

せっかく読んでくれている人がいるのなら有益な情報を書いておきますが恋愛学という授業で学んだ話、卒アルの写真が笑顔でない人は、笑顔の人に比べて離婚率が5倍だそうです。また、プロ野球選手の選手名鑑の写真、笑顔の人はそうでない人より平均寿命が長かったそうです。はい今、アイコンが笑ってない人今すぐとびっきりの笑顔の写真にかえましょう。男も女もその方がかわいいですから。

 

明るくなってる空を見上げて昼過ぎに出かける。僕が家出た途端に雨足が強まるのホントMr.雨男だすごいな。貯金しなくちゃと思いつつも、大きな変化は瞬時に起きないけど自分の好きなものにお金をかける日々を始めていく。成長のための読書とか映画とかって結局残らず、本を読むことそのものを、映画観ることそのものを楽しめる時の方が自分に残るものが多い。

業界の偉大なプランナーの方がこんなことを仰っててすぐにいいねしたツイートがある。

散々、自分の中で愛だの間の恋だの表現だの仕事だの考えてベースはできてきたと思うので、時間をかけて磨いていくフェーズなんだろう27.5歳。人生100年で見たときに今、守破離の破になるための栄養分を取り込んでいくイメージ。そこに全くさみしさのない人生も味気ないだろと強がる。

 

広告界隈で話題の『ウィーアーリトルゾンビーズ』が面白かった。広告クリエイターの監督さんが楽しんで作っている。隠そうとしても出てきちゃう自分の好きな表現が踊ってる。インタビューを読むとなぜ広告クリエイターが映画を?と聞かれてこう答えている。「次第に「僕自身が伝えたいものを作りたい」という思いがふつふつと湧いてきたんです。そこから映画を撮らざるを得ない気持ちになって、また作り始めました。」この〇〇せざるを得ない気持ち、は何かを創作する上で欠かせない。

「ウィーアーリトルゾンビーズ」特集 西川貴教×長久允インタビュー|フラグ折りまくり! 西川貴教、摩訶不思議なナガヒサワールドを体験 - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

この対談、読みごたえがあって監督が忌野清志郎から感じた「ユーモアやニヒリズムみたいな客観性を持てば、弱い部分があっても生きていける」というメッセージは優しいし、「子供たち4人はあきらめているうえで悲観せず、淡々とヘラヘラしながら歩み続けてい」るこの姿勢を“ジャパンクールスピリット”と表現されているのとか、かなり共感。「日本は経済的にはすでに停滞しているのに、そこまで悲観的じゃないように見える」「ZENや仏教的、浄土真宗的な感覚なのかもしれない」とあるのも分かる。

作品と出会うタイミングってあると思ってて、変わらない日常に若干の諦念を持ちつつある30前、それでも悲観はしていないし、僕だって淡々とヘラヘラ歩んでいく。現実はヒーローもいないし、ラスボスもいない。当然ラスボスを倒しても人生は続いていく。僕らにできることはコンティニューするだけだ。どこかで聞いたことあるな。存在を証明するということは、派手なことをすることではなく、“地味に生き続ける”ということでもある。悲しいことはあるけど涙は出ない。さみしさも一緒に連れていくだけだ。淡々と。ヘラヘラと。

映画を見てもまだ14時半。夏至。日中が長い。幸い、時間だけはある。冒険を続ける。

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