強くも上手くもないのだけれど、見るのもするのもオオギリは楽しい。
僕のいた研究会にこの時期、大喜利の大会があって全員参加オモシロバロメーター。毎年予選敗退だったことを思い出す。そもそもオオギリってなんなのかよく分かってなかったんだと思う。
例を。覚えてる1年目の初挑戦。
「この図書館、なんか集中できないな~。どうして?」
教科書のようなきれいなお題に、先輩の回答
「司書の人が、集中してますかと話しかけてくる。」
お手本のようなきれいな一本。
一方の僕は、
「滝が流れてる。」
なんて答えてギャラリーをふわっとさせる。笑った人が笑って少し恥ずかしくなるような。
「おすぎとピーコには実はもう一人兄弟がいました。何している?」に対して
「おすピーの批評」
もうこれ正解だろって、先輩のきれいな回答に食らいつくべく出した答えが
「邪魔」
とこれまたふわっとしたウケ。笑った人が笑って少し恥ずかしくなるような。
激戦を通過した者のみの、毎年、夜を通して行われる決勝トーナメントは、所詮素人でしかないんだけど、阿保みたいにレベルが高くて、チャンピオンズリーグみたいだった。たのしろかった。
「大喜利って実は、そんな難しいもんじゃねぇんじゃねぇか。」と先日久しぶりに鍋を囲んで、研究会の先輩から教えていただく。
「要はお題は決してオモシロいことを言え、とは言ってねぇのよ。図書館で集中できない理由を考えるだけじゃん。」と、なんだかそのままのことを言ってた。多分だけどお題をちゃんと受けて、決められた設定ルール枠組みの中で、突拍子もないオモシロワードも一つの戦い方ではあるけれど、まずはまっすぐ答える。ということなんだと思う。この解釈で合ってますかね、みのりさん。
こねくり回すんじゃなくて実はシンプルなコミュニケーション。なんて言っちゃうと少しきもちわりぃけど。
目先の言葉に左右されると、いつだって本質を見失う。
こないだの亀田さんの音楽番組ゲスト星野源がとってもおもしろかった。
星野源に最近ようやくハマって聴き狂ってるんだけど、『くだらないの中に』を書いた人が、「言葉に意味なんてない」っていうスタンスなの、すごいと思う。
歌詞で全部言おうとしちゃうとそれもはや説明文じゃないですか、ってもう、すごい。あぁ、語彙。
長ったらしく話して何も伝わっていない僕は、彼の言葉数に憧れるのです。
仏教の言葉でいう「月をさす指」。
「月だ」と月をさす指は、あくまで人の指だから。月を指さされたとき、その指にとらわれていると月を見ることができない。んだけど、その指がなければ僕たちは月の存在に気づくことができないし、月の方角だって分からない。
目先の言葉に左右されると、いつだって本質を見失う。
し、それすらオロソカになってしまうことがあるからたまにかえりみる。
今度から尊敬するコピーライターの方々とご一緒できることが楽しみで、無力さも有力さも言葉の力を知っている方々との経験は、将来何やってるかまだ分からないけど、社会の赤ん坊のこの時期、非常にとってもめっちゃすごーくオニ有難い。
あなたと私の、どうぞ、いい加減な言葉を。